2004/06/03(木)〜2005/05/ 27に渡って苫小牧民報紙上のエッセイ「ゆのみ」に、2週間に1度、計25回に渡り、執筆者の1人としてつたない文章を書かせてもらいました。
いろいろ思うがままに書いたので、題材もいろいろでした。
初めての連載でしたが、締め切りきりを気にしながらも楽しく書くことが出来ました。
民報社の担当者、松原様には何度も原稿の差し替えをお願いしたりご迷惑をおかけしました。
このページでお礼を申し上げたいと思います。
ありがとうございました。
ご意見・ご感想は メールで お願い致します。<(_ _)>

2004/06/03(木)第一話「王子の緑」

王子製紙の工場付近は、私は物心ついたときから、いろいろと遊ばせてもらったので、非常に好印象を持っている。私の卒業した幼稚園も王子町にある「ふたば幼稚園」である。そのころは園門のあたりの今では大きな木々もまだ小さく、空からの太陽がまぶしく注がれていた。小学校から下校すると、王子のグランドやアパートでよく遊んだものである。今でこそ取り壊して少なくなってはきたが、当時は石炭ストーブから石油ストーブに切り替わってきたころで、その時分スチームの集中暖房でお湯も出るアパートなんてことは、まさに羨望であったのだ。冬の寒い時分はアパート地下の風呂や物置がある暖かいスペースでかくれんぼ、夏は王子のグランドの周囲を自転車で周回レースなんて事もよくやっていた。秋には必ず数日かなり群をなして飛んでくるトンボ「アキアカネ」採りに熱中していた。春には今は工場になった5号棟横に群生して咲き乱れた「タンポポ」もまた懐かしい。そんな王子の周辺の緑は、私はひとたび足を踏み入れると、市内の他のどこの緑ともひと味違う感じがする。今は門番まで出来てしまったので中に入りにくくなった感じがあるが、交差点角の「王子倶楽部」から奥の「王子正門」あたりの景色は少々重厚感があり、ちょっと心が休まる緑の空間である。先日ウォーキングと称して久しぶりに中を歩かせてもらった。その途中にある王子神社も健在だ。以前は参拝前の手を清める水も流れていたが、私の記憶では少なくてももうかなり前から蓋がかぶせられ流水していないのが少々残念である。「王子倶楽部」とJRの線路との間にある一戸建ての数件の社宅の庭や垣根のたたずまいも華美でなく落ち着いたもので、歩いてみているだけだが私は大好きである。春から夏への季節の移ろいの中で、王子の緑を感じるには絶好の季節である。 


2004/06/17(木)第二話「ホッキ貝」

歯科医師会で酒好きと言えば誰ですか?「はい、それはK藤先生です。」では、一番の大喰らいは誰ですか?「はい、それもK藤先生です。」そんなに飲み歩いているんですか?「はい、錦町の帝王と言われているくらいですから。そば食べて帰ろうと言いながら、注文はオムライスですからね。」などと皆錯覚を起こしている?ほど、実は会議宜しく、会議のあとの飲み会への参加率はかなり高い。本当の酒のみではないので、酒を楽しむと言うよりは、飲んで食べたいほうである。大学の同級生から「ジジイキラーのK志」と言われているくらいなので、会議のあとは年上の先輩先生が必ずいるわけで、私のしゃべりの調子はさらに本調子になる。そんな中、居酒屋さんで感じることだが、ここ数年の生鮮類の流通は凄い。「日本どこにいても何でも食べられます。」の感がますます増していると思う。上京すると必ずの様に新橋で会って飲む高校時代の気の合う同級生の一人は、「お前これ旨いんだぜ」と「ホタルイカ」を指さすのであった。「ふーん、なにこれ?旨いのこれ?俺って歯ごたえのないのあまり好きじゃあないんだよね。」などと言って食べてみたが、数回食べて虜になったのだった。そんな富山名産「ホタルイカ」もまたたく間に苫小牧の居酒屋さんに上陸、生でさえ見かけることがある位だ。関係各位の努力で僕の大好きな「ホッキ貝」もまたたく間に苫小牧の名をひろめた感が強い。「加藤さん、ホッキのフライ軟かく食べられる方法知っているかい?」「ホッキのフライはね、パン粉つけた時点で一度冷凍するの、で、翌日そのまま揚げると軟かいんだよ。」と知人の弁。私はまだ試したことはないのだが、皆さん明日のご夕食でいかがですか?第1話は皆さん自己紹介されていたので、私は今回ちょっと遅れてへんてこりんな自己紹介です。読者の皆様一年間どうぞよろしくお願い致します。


2004/07/01(木)第三話「弾ける楽器」

ミドル層をターゲットにした音楽教室がにわかに活気づいていると言う話は耳にしたことがあった。思えば私も幼稚園の時にオルガン教室に、小学校に入ってからはピアノ教室に通った経験がある。しかし、学校で吹くハーモニカあたりまではまあ中の上くらいはあったと思うが、私の本来の音楽的センスはお世辞にも優秀と言えるものではなく、とにかく次のレッスンまでに楽譜をみて弾けるように練習するのが苦痛でしょうがなかった。スケートで腕の骨折をしたのをいいことに、それ以来レッスンを受けることはなかった。楽器が上手に弾けるようになりたいな〜と思ったのは、ビートルズに傾倒してからである。13歳で祖母にフォークギターを買ってもらってあと少しで30年の歳月が経つではないか、、数本のギターは今でも所有しているものの、今だに自信を持って誰かにお聴かせできる曲はほとんどない。全く弾けないのではないところ逆に意味始末に悪い。音感のいい人間は「そのギター6弦が1/4音狂っているよ。」などとありがたいご指摘を下さることがあるが、落ち込む一方だ。ある大手楽器メーカーのミドル層向けの音楽教室はピアノにギターにクラリネットにサックスなど何でもあるらしい、しかも、数年後に教室数を3倍に増やす計画だそうだ。さらには「弾ける楽器」の開発を猛烈に進めているらしい。「弾ける楽器」とはどういうものか?楽器に内蔵されたコンピューターとセンサーのおかげで、人間が出したいと思った意志の如く、そう、口笛を吹くようにその楽器からその音を発することが出来るのだそうである。いやはや、凄い時代である。もちろん弾けたり吹けたりときは気持ちが良いのかもしれないが、現代日本の過保護社会を象徴していると思えてならないのは私だけであろうか?他人様に聞かせられなくても、僕は今まで通りのギターをいじっていたい。


2004/07/15 (木)第四話「お祭り」

私の懇意にさせて頂いている方の奥さんが青森出身で、毎年家族でねぶた祭に行くようである。青森がねぶた祭で弘前はねぷた祭という違いがあることを初めて知った。調べてみると青森は勝ち戦の祭、弘前は出陣の祭と言うことらしい。ご主人の方は北海道の男だがもともとの出身は九州なので、「北海道の祭はどうにもつまらない、歴史がないところの祭はだめだよね」というのである。確かに全国各地の祭の報道を見ると凄いものばかりだ。そんなこともあって、「確かにそうかもしれないよな〜、でも、他のお祭りは見に行ったことがないな〜」などとあらためて考えさせられていた。ちょうどその頃、向かいの寿司屋さんに行った時のことだ。「先生、このあいだ来たお客さんが、樽前神社が矢代町だった頃、二条通の新川通のところから神社まで夜店が出ていて、新川通りにはまだ新川が流れていたというんだけど、そうだったかい?」というのである。その寿司屋のご主人は室蘭から昭和50年頃苫小牧に来た方で、それはちょうど夜店が若草町に移った頃なので、年下の私の方が詳しいのである。僕の記憶では一条通の新川通のところから夜店が旧苫小牧川の橋までである。今の中央ボウル前の新川通りは僕が生まれたときにはもうすでに川は流れていなかった。思い起こすと夜店の最後には傷痍軍人さんがまだその頃はいて、夜店の種類はいろいろあった。北海道のお祭りと言っても今のお祭りより大分風情があった気がする。金魚すくいはもちろんであるが、虫屋、竹篭屋、のこぎり屋、ひよこ屋もあった。虫屋ではくつわ虫を買ってもらい、その鳴き声に驚いた。ひよこは見事なオスの鶏になってしまい、毎朝鳴き声がうるさくて参った記憶がある。今のお祭りよりなんて書いたが、実は今の高丘に移ってから実は私は神社祭に行っていない。今年は行ってみようかと思うのである。


2004/07/29 (木)第五話「地球温暖化とディーゼルエンジン」

明らかに女性より男性の方が、車好き人間が多いことは誰もが感じているところだと思う。特にエンジン音に心揺さぶられる方は多いであろう。かく言う僕も小さな模型飛行機用のエンジンを幼なじみと協同で買って、はじめて始動した瞬間の感動は今だ忘れることが出来ない。はじめて手に入れた車は、四気筒ディーゼル車であった。その次の車は四気筒ディーゼルターボと二台ディーゼル車に乗っている。実は私はなぜかディーゼルエンジンが本当昔から好きで、出来ることなら今度はディーゼルの滑らかな6気筒に乗りたいと今でも考えている。日本においてのディーゼルエンジンの立場は石原都知事がディーゼル車の排除!と数年前に言っていた様に以前から相当に悪い、しかし、着々と世界の流れは変わっているのだ。燃料電池や水素エンジンの研究も急ピッチで進められているものの、実用化と地球温暖化などへの対策には高性能ディーゼル車が一番とのことなのである。今までのディーゼルでは確かに排ガスに窒素酸化物が多く含まれていた。しかし、燃料の改良や技術革新によって現在のディーゼルは振動なども改善され、一昔前には信じられないクリーンなエンジンに変貌を遂げはじめているのである。地球温暖化の元凶といわれる二酸化炭素の排出がガソリンより20パーセントも少ない。元々の低回転域からのパワーが絶大で、熱効率が良いので燃費もいい。まさにエコクリーンなのだという。事実、数年前ドイツフランクフルト空港で、すでにアウディーの6気筒ディーゼルがフラッグシップモデルとして展示してあったのを見て、ついにディーゼルが市民権を得られるのかと感動してしまった。トヨタもホンダもマツダも高性能ディーゼルの準備をしているらしい。当時私のディーゼル車の助手席で顔をしかめていたあの女性も、「高級車セルシオ・ディーゼル」ならそんなことはなかったはずである。


2004/08/12 (木)第六話「十勝沖地震」

一つの記事を読んでそれだけで判断するのは良くないかもしれないが、最近は幼児虐待という記事や報道に接する事が多い。そんななかで、僕が感じるのはいつも「なぜ?」である。私には子供がいないのでそれを語る資格がないのかも知れない。しかし、普通の感覚では親は自分の子供には厳しくも優しくも愛情を注ぐのが当たり前ではないのか?では虐待の原因は何なのか?巷で言われいるとおり、今の日本社会で親自身の置かれる環境の厳しさ、親自身の育ってきた時の経験等々、いろいろなことが複雑に絡み合っているとは思う。しかし、そんなことばかり言っていては世の中は成り立たない。先日、ある聡明な方と少しばかり話す機会があった。子供が個性があっても社会の中ですくすくと脱線しないで成長していくには、どの様な環境で育った場合かと言うようなことが話題として出てきたのである。その女性の話は以下のようなことであった。女性が妊娠したとわかった瞬間にそのことを喜んだかどうか?あとは生まれるまでのやはりその親や周囲の気持ち。生まれた後も、親の話もわからないごく幼い時分に子供に対して愛情が注がれたかどうかで、その後はいろいろな経験を子供がしていき学習していくことで磨かれていく。まあ、そのような内容である。ちょっと賛否両論あるとは思うが大方その通りの気がして、僕は大賛成で話は盛り上がってしまった。私が幼稚園の時、全園遊戯の最中に十勝沖地震が起こった。私はもちろん大人達もほとんど経験のない様な大きな地震で、地震のおさまった後には地割れや断水などが起こったほどであった。地震後、園外の芝生に避難して本当少し後、一番に駆けつけたのは、王子病院に心臓が悪く入院していたクラスメートのお母さんであった。ガウンのままであった。私はこの状景を忘れることが今持って出来ない。母は強しである。


2004/08/26 (木)第七話「地ビール」

「美苫」という苫小牧の日本酒が人気だが、苫小牧の地ビールがないのは少々残念だ。地ビールが数年前から各地にこぞって出来た。私は元々黒ビールやスタウトなど、くどめのビールが好きであったので、地ビールも大変好きで、日本の酒文化も良い方向になるな〜などと勝手におめでたく思っていたものである。しかし、その地ビール好きの私も一晩のお酒を地ビールだけで飲み続ける事は、くどすぎて出来ないでいたので、日本でのこの人気ははたして長く続くのか少々不安であった。結果は皆さんご承知の通りで、地ビール会社の数がかなり最盛期より減ってしまった。そんな時、「日本人は明治時代までは牛乳を飲むという習慣がなかったので、牛乳のカルシウムは上手に吸収できない」と言う文章を読んだ。どのくらい経ったら、上手に吸収できるようになるのであろう?これを読んで驚いた。1000年以上の単位であるというのだ。ああ、地ビールも日本人にはやはり無理なんだと勝手に思ってしまった。最近はDNAという医学用語が流行だ。「日本人が牛乳からカルシウムを上手に補給出来るようにDNAが変わっていくのには1000年以上かかるんだよ」というのかな、、でもそう言う論もあるけれど、牛乳は日本人のカルシウム補給に貢献していることもまた統計的に実証されているし、うちでも宅配してもらっている。それにしても今年の夏はビールがぬるく感じるほど暑かった。駒沢の野球は凄かった!アイスホッケーで主将として駒沢と戦ってきた友人がメールを送ってきた。「こいつらはほんとにすごいね、苫小牧というだけでわが母校のように感じます。こっちでさえ、さっきまで祝勝会やって盛り上がってました。
駒沢の野球部のOBに電話したら号泣していたぞ、現地報告お待ちしております。」同感です。選手の皆さんや関係各位に敬意を表します。おめでとうございます!やったぁ!!


2004/09/09(木)第八話「教師/樽前登山」

知人からなんと、冬の樽前山に単独登ったときの山頂から撮った写真を見せられて、僕は冬の樽前山に登るとい
うことがあるのかと、仰天してしまったことがあった。夕方から単独テントで寝て夜明け前に一気に登るという
のだ。山頂に夜明け前に着いて、苫小牧の夜景を楽しむらしい。太陽が昇ったあとの写真は、数年前久しぶりに
氷結した支笏湖のものであった。翌冬には仲間二人と3人でまたも登っているのである。その二人は翌日の夜に
急遽登山を決定、それを成し遂げるのであるから、自前の装備の充実もともかく、その体力など、私には羨望と
劣等感の両方を実感させられた。下山は持参したスキーで一気とのこと。樽前といえば小学生の6年の時に学校
の事業として樽前登山があった。しかし、この時私は足の手術をうけた後で、バスで同行して、七合目で皆の帰
りを待つという予定でこの日参加をしたのだった。しかし、いざ行ってみると、五合目から七合目までの道路整
備のため、バスが五合目までしかいけなかった。急遽予定を変更、7合目までは皆と一緒に歩くこととなった。
その道中、クラスで一番の仲良しでスポーツマンのHが仮病を使って僕と一緒に七合目に残ると言いだした。
7合目までで皆水筒の水のかなりの量を消費してしまっていた。そこで僕らは待ち時間の間、次々に下山してく
る登山者達から彼らの水筒に残った水をすこしずつわけてもらい、かなりの量を確保することに成功したのだっ
た。同級生達が下山してきた。皆、かなり疲労の色をみせていた。そんな中、僕達の水を残らず担任のT先生は
クラスメートたちにすこしずつ分け与えたのである。僕ら二人には一滴もないので文句を言った途端、「お前達
より、みんなの方が、どれだけ水を必要としているかわかるのか!」一喝されてしまった。僕ら
二人は自分たち
の発言に強烈な恥ずかしさを感じたのであった。


2004/10/07(木)第九話「樽前登山2」

10月4日付けの民報のトップ記事は、樽前山から支笏湖を望む美しい景色のカラー写真付きのものであったが、この取材と同じ前日の日曜日に、私も大人8名、小学生6名の総勢14名で樽前登山に望んだのであった。前回の「ゆのみ」に書いたとおり、小学6年の時には七合目から上には行かなかったが、小学2年生の時に、斜め向かいの幼なじみの父親が、息子二人と僕の3人を連れて行ってくれたので、頂上を目指したのは今回が2回目と言うことになる。実に34年ぶりだ。この時の強風の山頂での写真は、私のアルバムの中でも5本の指に入る大切なもの。さて、どうして今回の登山になったかと言えば、先日の食事会での席上、私が「ゆのみ」に樽前登山のことを書いたことがある程度関係しているような気がする。誰からとなく登山の話が出て,あれよあれよという間に決まってしまったのである。皆酔っていたので「行こう〜!」と言うことになってしまったが、最初から乗り気でなかったメンバーも含めて翌朝起きると、変なことを決めてしまった、、と皆、後悔半分というのが本音であった。子供がいるからゆっくり登るから大丈夫とか自分に言い聞かせるように他に説明なんかして、、。数日が過ぎ天気を心配しながら日曜の朝を迎えたのである。私達の登山を祝福してくれるような秋晴れ、しかし、この場に及んでも尚、「ほんとに行くのぉ〜?昨日のゴルフですでに足ぼろぼろだわ〜」とうそぶくB隊長を先頭にいざ出陣、7合目から小一時間、中略、、34年ぶりに立った山頂からはすばらしい景色が眼前に広がり、皆、先ほどまでの不安や不満はどこかに一掃、「来て良かった〜!」の一言にかわったのであった。皆さん、お勧めです。加藤写真担当隊員拝
(BBS掲示板のページに写真を二枚ほど載せてみました。)


2004/10/21(木)第十話「実は勝海舟が好きです」

今年は大河ドラマのおかげで空前の新撰組ブームだ。メディアの力は偉大である。私も坂本龍馬に感心を持ったのは、「おーい龍馬」という漫画がきっかけだ。それ以来いろんな本を読み、次に自分なりの幕末への意見ができてきたのであった。5月に上京中、東京の「江戸東京博物館」で「新撰組展」が開催されていたので行ってみたのである。すさまじい来場者で行列ができていた。新撰組、いや、幕末がお好きなんですね。と感じる御仁以外のお若い方々が多いのに驚くばかりであった。だからだから、きっかけはどうでも良い。こんなに新撰組と言う番組を観て興味を持って来場しているのだから、脚本を書いている三谷さんはやはりたいした人なのだろう。さて、あなたは幕末で一番好きな人は誰ですか? 僕の好きなのは少なくとも新撰組隊員ではない。私も蜘蛛は嫌いだし、食事の時ボロボロこぼすので?!坂本龍馬が大好きだけど、やはり勝海舟。彼の言葉「行臓は我に存す。毀誉は他人の自由」(私の行動の責任は私自身にあるのだ、誉めるもけなすも周りの勝手。)が特に好き。何とも男らしいし、現代日本に一番欠けている精神だ。 幕臣であった勝海舟や榎本武揚を、新政府樹立後コウモリ視する意見は妬みやっかみと思う。私は政治音痴だが今の政治家にはここら辺が物足りないし、いつも票取り合戦に相手の揚げ足取りなのは何なのであろう。小泉首相はいろいろ言われてるし僕にとってもマイナスだ、しかし、実は好きだったりする。鈴木宗男氏の苫小牧マラソンでの成績は私の知人4人のすべてを上回る成績、知人の一人曰く「はじめは何しに来たの?と思ったが、たいしたもんだよ、お化けだわ。」近方見聞録もまた楽しい。


2004/11/04(木)第十一話「ボンネルフ」

街中の一方通行は旭川の買い物公園が全国に先駆けて完全歩行者天国を実施、日本中の都市がそれを追従し、苫小牧でも一条銀座通りがそうなったのと同時ではなかったであろうか。あのころはまだ人通りも多く活気があった。今は日中の人通りのなさはしかり、平日夜でも七時半以降にならないと日曜のように静まりかえっている。そのさまはまさに異常な感じである。一方通行をやめると人通りが復活するとは全然思わないが、一方通行の役目は、もうとっくの昔に終えていると私は思う。
 二条通り、これは数年前に整備され、二条コミュニティー道路と名前が付けられている。ここと市民会館南側の通りは直線ではなく蛇行しているのである。なんでこのようなことになっているかをご存じであろうか? これはコミュニティー道路と名前が付けられているように道路とコミュニティースペースが合わさった道路だからだそうである。簡単に言うと、道路と公園の機能を持たせた道路である。市民会館の方はそう言われるとそんな気もするが、二条通りは道幅の狭さばかりが気になってしまう。
 オランダの都市計画用語に「ボンネルフ」という言葉があり、対訳すると「井戸端会議ができる裏通り/コミュニティースペース」となる。私は「二条コミュニティー道路」の命名の時に「ボンネルフ通り」の案を出したが、あえなく落選してしまった。
 欧州には公共交通機関以外は立ち入ることができない「トランジットモール」というスペースがあるようで、これは排気ガスによる環境破壊や公共交通機関の利用者増大によって結果的に、その街自体の活性化を計る構想とのこと。日本では根付きにくい感じがする。しかし、欧州らしくなかなかしゃれた発想だと感心することしかりなのである。


2004/11/18(木)第十二話「鹿毛正三先生(1)」

「次は測候所前、測候所前、次、お降りの方いらっしゃいませんか?」そう車掌さんがアナウンスするとだれか降りるよと素振りをみせる。そうすると車掌さんは「次、願いまぁ〜す。」というのである。合図に運転手さんがボタンを押す。そうすると「ミミッ」というへんてこなベル音が車内に響き渡ったのであった。ちなみに素振りがなかった場合は「次、オ〜ライ!」と車掌さんがアナウンスする。「次、オ〜ライ」というのも、今思い出すとちょっと滑稽だ。私が小学校に入った頃、市営バスにワンマンバス、そして西町美園環状線という路線が出来たばかりだった。子供心に環状線というのは、なにか新しい響きを感じたりもした。しかし、支笏湖や錦岡・樽前行きのバスはまだ車掌さんが乗務していた。昨日、ちょっとした理由で、結果、めずらしく土曜の午後を家で過ごしていた。とにかく家でゆっくりすることがないので、普段出来ない事をやろうと思い、和室に積み重なった荷物の整理をはじめたのであった。そんな中、鹿毛正三先生の随筆集「絵かきつれづれ」と、その後、道新で連載された「朝の食卓」のコピーが出てきたのである。亡き祖母のものである。部屋の整理がなかなか進まない理由はいつもそうであるが、特に今回はそれらを読みふけってしまった。さすが鹿毛先生、私が毎回書かせてもらっている文章とはレベルが3段階くらい違うのである。実は「測候所前」は、鹿毛先生のご自宅近くのバス停である。絵画教室に2年ほど通わせてもらった時の話だ。うちにいた秋田犬雑種の「ロン」は先生の愛犬の子供。それにしても、鹿毛先生にぴったり吸い付く入れ歯を作れなかったことは、今でも私の力不足として思い出すたび胸が痛むのである。


2004/12/02(木)第十三話「鹿毛正三先生(2)」

はじめて鹿毛先生の作風を子供ながら自分で感じたのは、絵画教室に通う前に、祖母に連れられて挨拶にいったときのことである。昔々、小学校1年の時である。玄関を入るとしっぽのない真黒な猫がこちらをちらりとみてどこか奥に消えてしまった。アトリエの床はフリーリングの板張りで、教室に通う生徒達が使うイーゼルがいくつもあり、初めて入った私にとって、かなりの異空間であった。一角には鹿毛先生の立派なイーゼルがいくつかあり、制作途中の風景画があった。かなり遠方に立っている数人の人間が、チョンチョンチョンと三色の絵の具を点のようにおいているだけ描かれていた。それなのにそれが驚いたことに、見事に人間に見えるので私は驚いてしまった。実際教室に通い始めると、毎回の題材は自分で考える事になっていて、先生は元気がある大胆なものを子供達が描くのを好まれていた。今でも鉛筆画や版画が好きな私は、線がはっきりした絵が好きだった。何回目かは忘れたが、発売されたばかりの新しいトヨタマーク2の絵を描いていたのである。そうしたら完成間近、先生はいきなり私の画用紙をビリビリッと破り捨ててしまわれたのである。教室中のみんなも私もびっくりして声も出なかった。沈黙のあと、一緒に通っている幼なじみに「どうしよう〜、、」と聞いた瞬間、目から涙かでて止まらなくなってしまった。先生はしばらくして私のところへ来ると、お父さんが歯の治療をしているところを描いてはどうかと言われて、治療台に座っている患者さんと父の姿を描いたのである。帰りには「おー、よくかけたー!」と言いながら、絵の裏に特大の花丸をやさしい笑顔でかいてくださる先生であった。


2004/12/16(木)第十四話「手紙(幸せは満足にあり)」

郵便の流通量は米国、中国に次いで世界第3位、しかし日本人個人一人あたりが手紙を書く数は世界第18位とのこと。電子メールの普及などの影響もあるといっても他国もそうである。その落差は余りにも大きい気がする。実は私は手紙はかなり好きな方で、やれ封筒はソニープラザなどで売っている透かし入りのあれ、便箋は万寿屋の200字づめの原稿用紙が最高、ペンはドイツペリカン社のデザイン用のペンなどと言い、おまけに切手はお気に入りの図柄の記念切手を使うなど、一時期、偏執狂的な郵便の出し方をしていた時期があった。年賀状も年末の多忙な中、必ず独自のデザインで印刷屋さんに頼み、それを出すのを信条としていたが、それもこの1月の年賀状から自分のワープロソフトで書き上げたものになってしまった。要するに威力減退である。私が手紙を一番書いたのが大学の寮生時代であった。全寮制でほとんど原野のようなところにあったので、血気盛んな寮生達のはけ口は、酒と喧嘩などであった。赤の公衆電話が2台だけ、夜になると皆10円玉いっぱいの巾着袋をぶら下げて行列を作っていた。そんな中で僕は手紙を書くことが多くなったようだ。それにしても年間の往信約300通、復信も200通を超えた。良くもまあ書いたものである。相手のほとんどが、各地に散らばった高校の時の仲間であり、内容もたわいのないものであった、やれ、カレー屋でバイトしている。どこどこのディスコに行って来た。夏休みは函館に遊びに行こう。でもまさにワクワクの情報交換なのである。おかげで国語嫌いの私は書くことが大好きになってしまった。何が幸いするかわからない。今でも郵便局に行くと記念切手が気になってしまう私である。


2005/01/06(木)第十五話「年賀状考」

今年も年賀状をたくさん頂いた。実は私は年賀状はかなり好きな方で、既製の図案は使わず作り続けている。1971年初めてゴム版でイノシシを彫ったのが最初で、秀作駄作を別としても今年でなんと35年になるわけである。自分で図案を考えて、旧知の印刷屋さんにいろいろ細かい無理を言って印刷してもらったり、昨年からはついにワープロソフトで自分で印刷するようになった。頂いた年賀状で毎年楽しみだったり、心に残っているものもいくつかある。あの画家の鹿毛先生のは毎年楽しいユニークなものであった。ご存じの方も多いとは思うが、その中でも「あぶり出し」と書かれたところをあぶっても何も出てこないというものは、正月の一家団欒に華を添えてもらったものだ。長年、ご家族の年齢と近況を文字で紹介して下さる賀状もあった。親に頂くもので私はその御家族とは一度もあったことがないのに、趣味・性格までわかるようでこの年賀状も想い出の年賀状である。そう言う年賀状は特に楽しいものだ。僕のもここ数年そんなスタイルである。写真入りの年賀状も、相手の近況を知る意味ではかなり好きであるが、子供やペットだけドーンと大きく出ているのは少々辛いものがある。それは私が未だ独身でそろそろ焦りを感じているのが原因とも思うが、子供さんだけのでも、毎年凝ったデザインで頂く大学の先輩のは楽しみである。まあ、頂き物にあれこれ言うのもなんだと思うが、これが私の「年賀状考」といったところ。しかし、いくら年賀状好きと言っても、年末の忙しい時期に年々肥大化する年賀状を書くのは苦痛でもある。今回は最初の投函数を大幅に数を減らしたのであるが、どうやら最終的な数を減らすのは難しいようだ。


2005/01/20(木)第十六話「永年幹事」

先日、出す年賀状の数がなかなか減らすことが出来ないと書いたが、実は私は幹事役からもなかなか離れることが出来ない。好きなのだが苦痛な部分もあると言ったところが本音だが、年々苦痛部分の占める割合が多くなってきている。高校卒業時に各クラスで男女一人づつ「同窓会委員」なるものを決めるように言われて以来である。この委員二人が今、偶然苫小牧に在住しているというのもまあ、おもしろいところ。 必ず「クラス会は?」とか、「今度帰るんだけどどうなっているの?」「誰が帰ってきているの?」という風になってしまう。「まだなにも計画たててないよ、」「誰が帰ってきてるまではわかんないよ、、」とこんな感じを20数年続けてきた。歯科医師会の中でも同様な現象が発生してかなりになろうとしている。はじめは「下っぱ理事なんだから」といわれ、次は「会計なんだから」といわれてきた。二次会の集金で細かいのが無いというので、後で釣り銭を持ってもらいに行くと「さっき払っただろー!」といわれ、向こうもこっちも酔っていてわからなくなって損をしたこと一度や二度ではない。合同忘年会の二次会など「二次会どこに行くの?一緒に行っていい?」「僕もスタッフ連れて一緒に行きます」と急に言われても、店は決めてないし混んでいる時期だし、ということでこれまた焦ったり。おまけに僕の携帯に電話をかけてきて「何々先生どこにいますか?携帯番号教えてください。」の簡易情報センター役や「二次会はどこを予約してくれ」など老若男子日常茶飯事の要求。そのため、私の携帯のアドレス帳はほとんどメモリー満杯状態。最近、だいぶん楽にはなったが幹事役はまだまだ続きそうである。


2005/02/03(木)第十七話「列車の旅」

好きではあるが、仕事柄なかなか旅行に出るということがないとついつい言ってしまう。学会や研修以外で純粋に旅行に行った事は数えるだけしかない。ある先輩の方は飛行機が大嫌いで、従業員は飛行機で先生は一人だけ列車に乗り、目的地で合流するという前代未聞の観楓会を挙行したことがあるというのであるが、私の場合は両方好きである。特急おおぞら(函館←→釧路・旭川)は札幌←→釧路になってしまい、函館←→網走を走る特急おおとりはなくなってしまったのは個人的に非常に残念である。これらは昭和36年にまず特急おおぞらとして登場、全車窓は開閉できないで冷暖房完備、洗面所には冷却飲料水の給水器がついて食堂車も連結、グリーン車には洋式トイレも備えたキハ80系と呼ばれるディーゼル特急であり、長らく花形特急として君臨してきた。最高13両編成で運転される姿は壮観であった。現在は三笠駅跡「クロフォード公園」に保存されているので、懐かしい方にはみてきて頂きたい。青函トンネルが出来て寝台特急北斗星が運転開始、カシオペアなどの豪華寝台特急も走っているが、乗る機会がないままであった。数年前、駅のトゥインクルプラザに、行きは北斗星、車中泊で翌日はホテル泊、帰りは飛行機というプランがあるのを知った。少しの追加で個室もオーケー。金曜日仕事を終えて、雑誌やビールを買い込んでいざ出陣。寝台の個室というのは非常に落ち着いて良いものだ。眠くなる頃には青函トンネルに突入する。翌朝は宇都宮あたりで起床、予約してあったシャワールームで身を清め、着替えた頃には大宮を過ぎている。上野に着くと何駅かで研修会場。飛行機にはないちょっと豊かな時間が過ごせる上京方法だ。


2005/02/17(木)第十八話「純情独身商店街(ダイエーも撤退かぁ、、、)」

もう10年くらい前だと思うが、主婦をしている高校時代の同級生に「あんたね、何で結婚しないのさ?」と言われたことがあった。「あのね、そうは言うけどさ、自営業に嫁さんってなかなか来ないんだよ、君さ、お父さんみたいに先生と夫みたいにサラリーマンか自営の人、どっちを選ぶ?」と切り返すと、「んー、そうだね、自営業のとこにはいかないわ」というのだ。「そうだろ〜?」と、こんな感じであった。我が町の周辺は、昔は「商店街」+「夜の繁華街」であった。大型店出店などの影響もあり、商店街は飲食店へとかわりその比率を高めていった。居住人口はすさまじく低い。私の歯科医院もそうだが、昔からの商売をそのまま続けている方々ももちろんいる。しかし、僕も含めた二代目三代目で商売をやっている方々やその子どもの独身者がこれまたすごい数なのである。居住人口から割り出すと、たぶん独身率は市内でトップではないであろうか? 先日数えてみたら、両手どころか両手三回必要なのである。沼ノ端あたりの大きく立派な住宅群を見るとなおさらで、サラリーマンの旦那さんで、奥さんはきれいで立派な家でご主人の帰りを待つと言うのが、いいに決まっているな〜と思うこと然り。しかし過日、駅前通近くの元耳鼻科医院の建物をオシャレにリフォームして、移転開業したお店の記事を読んだ。実際、前を通るとかなり素敵で目を引く。どんなはずれにあっても、看板出してなくても探してでも皆が集まるという店もある。ダイエー苫小牧店が閉鎖リストに載せられた昨今、我々には昔とは違うスタイルでのアプローチがもとめられている事は確かなのである。「純情独身商店街」の活気復活はなるか?


2005/03/03(木)第十九話「ダイエットとハゲ」

ダイエット食品の氾濫と育毛剤や育毛・カツラの宣伝を見てもいかに悩める人が多いという事であろう。実は私はその両方を経験済みである。幼稚園の時には華奢な子供であったが、小学校に入り次第に体重が増え、高学年では見事な肥満児となり、6年生の時には保健手帳の毎月体重を記入する折れ線グラフの上限をついに超え、それから6年、高校の3年の時には105キロまで増えてしまった。なんと毎年10キロずつ増加していったことになる。ついに高校の3年の12月、沈黙の臓器、肝臓は悲鳴を上げてしまった。だるくてしょうがない、診断は脂肪肝による肝機能障害。ジョンレノンの久しぶりのニューアルバムは彼が射殺されてしまったかなり後で購入した。買いに行くのが大儀なのである。満員の通学バスにはフラフラ気持ち悪くなって乗っていられない。医者からはやせることを命題とされた。かくして私の減量作戦ははじまった。食事量や水泳などで2年少しで65キロまで40キロの減量に成功。モテモテのバラ色の人生が訪れると思ったが、そうでもなかった。でも、好みの服が着られるようになったのはうれしかった。しかし、人生は甘くない。10年も経たないうちに今度はハゲの影が忍び寄ることになる。いろいろ対策を講じた。最後にはロゲインの個人輸入も試みたが、交感神経緊張型の私には使っているうちに妙に心臓がドキドキしてきて、使うのをあきらめた。そのうちに額と後頭部の薄い部分が連続化してきたのである。「もうダメだ、、、」3年前のお盆休み突入の前日、自らハサミを入れたのであった。坊主頭も潔いとか似合っているとかでそれなりの評判も頂いている。でも、やはり自分的には本意ではないのである。


2005/03/17(木)第二十話「おじいちゃん、おばあちゃん」

うちに昔から勤めてくれていた従業員方が「裏の奥さん(私の祖母)は、奥さんと言わないで、おばあちゃんと言ったら怒られるものね」と言っていたことがあった。それは、孫にとってはおばあちゃんだけども、あくまで私は加藤家の奥さんという意味で怒ったのだという。明治生まれの気骨と言ったところか。それと似ている話で、医療機関などでよく耳にするが、お年寄りの方に「おじいちゃん、おばあちゃん」といういい方はなにか失礼な様な気がして僕は好きではない。「○○さん」と言うべきだと思っている。反面「患者さん」から「患者様」と呼び方がかわるなど、一昔前とはいろいろ変化も見られる。でも、自分が病院に通院して「加藤様」と言われるのは違和感があるのは、私が時代の流れについていけていないと言うことかも知れない。先日、苫小牧保健所が主催の歯科診療所における健康サポート事業という研修でいろいろ勉強してきた。私は喫煙はしないのであるが、いろいろ勉強になった。禁煙禁煙で喫煙者には肩身の狭い世の中だが、本当にやめたいなと思わせるサポートが必要だと実感させられた。生活習慣病にならないように、またはなってしまったら、それを治さないといけないという実感を持ってもらうこと、そういうことがが我々医療人の使命として真にもとめられる時代なのである。日本人は欧米諸国に比べて歯周病に関心が低いが、これも然りである。国が奨めている「医薬分業」は健康保険の財源が足りない足りないと言われる中で、僕個人としてはメリットを感じることが出来ないでいる。日本の政策の中では、あの「ゆとり教育」推進の失敗と同じ様な事がいろいろな分野である気がしてならない。


2005/03/31(木)第二十一話「日本人は口が臭い」

他の執筆者の方は自分の仕事の関係のことをかかれているけど、加藤さんは何で書かないのですか?と言われて、そういえばそうだなと思って前回ちょっとだけ、医療関係の事を書いた。今回は歯周病について書いてみようと思う。最近、テレビで「歯周病菌をデンタル○○で殺菌」とか「プラークコントロール」などのCMをみることが多い。昔からと言えば「リンゴをかじると歯ぐきから血が出ませんか?」が記憶に残っている方も多いと思う。「歯周病」とは昔で言う「歯槽膿漏(しそうのうろう)」である。「歯周病」が進行すると「歯槽膿漏」になると考えられる方もいるようだが、「歯槽膿漏」の今の言い方が「歯周病」と思って頂きたい。簡単に言うと歯磨きが適切でないと、口の中にはプラーク(歯垢・しこう)という細菌の塊が出来、その細菌が出す毒素によって、歯ぐきが腫れ容易に出血する。これが「歯肉炎」そして、それを放置しておくと、歯肉の炎症は内部に進行して歯を支えている骨を溶かしていくようになる。これが「歯周炎」すなわち「歯周病」なのである。以前、アメリカの政府要人が日本に来て閉口した事は、日本人の政治家の口が臭かったことだと言っている記事を読んだことがある。日本人は本当温泉・風呂好きだなとは思うが、こと口の中の衛生に関していうと、いまだにお世辞にも誉められるものではない。東京の銀座には、こぞって有名ブランドが直営ショップを開店し、このままだと国の財政破綻も目前というのに、その日本国民は、それらの店で高価な買い物をしているのだ。着飾っても口を開ければ、歯ぐきの腫れが一目瞭然の人が多い。信じられない、、。キスなどすればお互い吸血鬼なのにである。


2005/04/14(木)第二十二話「21H 席」

昨日久しぶりに上京してきた。研修会に出席するために行ったのであるが、僕としては昨年末の羽田空港の第2ターミナル開業後初めての上京であった。行きは道民の翼AirDoに乗り、新ターミナルに降り立ったのである。なかなか立派でモダンな印象。しかし、横を歩いていた方の口からももれていたが、どれだけ歩かされるの?というほど、飛行機から出口までの距離は長かった。第1ターミナルが出来たのがついこのあいだのような気がしていたが、実際10年と少ししか経っていないのである。ところが最近は日曜の夕方などは3階の出発ロビーは人があふれかえり、おみやげを買うにもイスに座るにも、今振り返るとかなりの飽和状態であった。昔の羽田空港を思い出すとたった10年少しで隔世の感だ。しかし東京はいつ行っても刺激的である。昨晩はいつも会う高校時代の同級生と有楽町のガード下のオシャレな居酒屋に行ったが、土曜日は地ビールまでもが300円。おかげで苫小牧のどんな居酒屋より会計は安かった。研修会では出席している面々のレベルが違う。いつも思うことだが、北海道から行く私などは本当くじけそうになるくらいだ。しかし、幕末の志士達が、たとえば坂本龍馬が勝海舟と普通に接することが出来たと同じように、レベルの高い先生達と直に話が出来る現実がいつもそこにある。それは高い交通費を払ってでも有意義だ。座席の予約は大抵21H席。足元が広く、シートベルト着用時には美人で知的なスチュワーデスがこちら向きで座ってくれる。歯科助手のマナー講習でも元スチュワーデスに講師で来て頂く時代である。その身のこなしや話し方はやはりプロにふさわしい。今度も絶対21H席を頼もうと思う。


2005/04/28(木)第二十三話「ホームセンターにて」

DIYが日曜大工のことだと知ったのはここ1.2年の話である。DIYが好きですなんて言うにはほど遠いい私だけれど、かなりホームセンター好きである。先日、テーブルに敷いている透明なビニールシートがかなりくたびれて透明感も失ってきていたのでそれを行きつけのホームセンターに買いに行った。大きいテーブル用の薄いのが2種類、小さくて厚手のが一枚である。さて売り場に行ってみると自分で測っていった寸法に、縦では足りなかったり、横で合わせると異常に無駄が出たりとちょっと悩んでしまっていた。まあでもいいかと思ってあたりを見渡すと、アルバイト風の若い女性がすぐ近くにいたので、その方にテーブル用のビニール欲しいんだけど、とお願いしたのだ。でも心の中は「ああ、若いアルバイトか、寸法の相談をしても無理だな〜」であった。それでも「この厚さはこの幅だけですよね?ちょっと足りないんだよね。」と言うと、このアルバイトの女性はテキパキといくつかあるシートロールを調べはじめたのである。この時、「あれ?何か違うな、このヒトできるぞ」と思ってみるとどうも社員のようでもある。「お客様、ここのでは無理ですが同様のシートで建築用のがあるので、それでよろしければその寸法を確かめますので、、」と全く予想もしなかった対応なのである。結局建築コーナーまで案内してくれて、テキパキと計ってそれがちょうど良い大きさなのであった。世の中、聞いても売っている商品の説明もろくに出来ないダメな販売員が多い昨今である。とにかくこの女性の機敏な動きと機転の利いた対応には感動すら覚えてしまった。こういう女性はより美しく見えるのは言うまでもない。


2005/05/12(木)第二十四話「あなたはいい目をしている」

先日ある研修会に参加したときのことである。この日の受講生は大学を卒業して間もない先生から、私より20歳は歳上の先生まで各地から多数集まっていた。講師は私より14歳年上のこの道の大先輩で、元歯学部助教授である。しかし、僕とはまるで恋人の如く毎晩のように会議で話し、居酒屋で論議をし、カラオケを歌い合う間柄の先生なのである。そんなこともあって、その日の私の緊張感というものは他の諸先生から比べると、およそ少ないものであった。持参したカメラで研修風景を写したり、もちろん研修内容は真面目に聞いてはいたが、初めての診療室や研修室をいろいろ興味ありげに眺めたりしていた。そんな中で、入れ歯の型取りの方法について、大学で教授の下で研究していた時からの方法と現在、他の教授がかかれている方法、名人と言われる開業医の本などについて、その違い良さ弱点などについて実習も含め3時間、炎々気迫の講義を進めていかれたのである。私はある部分マンネリの自分のを強く反省せざるを得ない気持ちであった。そんな中、先の若い先生の熱心な態度と質問はなかなか好感の持てるフレッシュなものであった。最後のまとめの時に講師曰く、「君はいい目をしているね、いい歯科医師になると思うよ。歯科界は冬の時代だ、不安だ、やめた方がいいなんて後輩に言っている先生が多いけど、とんでもない!私はそういうのが一番嫌いでね。努力すれば必ずいい結果が出るはずです。他人からは学んでも批判はしないで今のように頑張って下さい。」とのこと。この春、すでに他の学部を卒業されている息子さんが歯学部を受けなおして見事合格されたが、なるほど納得いやはや感服である。


2005/05/27(木)第二十五話「終稿」

昨年の6月3日が第一稿、早いもので今回で25回目、1年の時が経とうとしている。毎月1回くらいと勝手に思っていたので、月に2回の執筆というのは結構プレッシャーであり、物書きを生業にしておられる方々は凄いな〜とあらためて思った次第である。一年間私のつたない文章におつき合い下さった方々にお礼を申し上げたい。
ここ数日、庭の桜が散り始め、多年草であっただろうか?今朝みると数本のチューリップが美しく咲き始めていた。ようやく北海道にもアウトドアの季節到来、気分も浮き浮きの感じである。そんなとき雑誌を読んでいたら、作家の渡辺淳一氏の対談が目に飛び込んできた。「女性はやさしくて誠実な人が好きと言うけれど、ある時、そのやさしさが生理的に嫌いになるときがある。」昔の話しだが、夏のある日、大好きだった女性とロングドライブを終え夕食を共にしているとなんだか機嫌が悪い、、どうしたの?と聞いても別にとの答え、、。最後まで理由が何としてもわからなかったのである。後日問いただすと「あなたが私に気を使いすぎたから、、」そう言われたことを思い出した。彼女はエアコンの温度も譲らない人間であったが、そう言う風に言われて恋愛経験の少ない僕は、その時どう解釈したらいいのかと悩んでしまったのである。渡辺氏はこうも書いている。「優しいことは、優柔不断ということでもある。」前稿「あなたはいい目をしている」の先生も「加藤先生、あなたは何事も考えすぎて前に進まないことが多い。」とのアドバイス。夏も近い。多分野に充実の日々を送りたいとあらためて思うのである。